あるまじろさんからの頂き物〜小説『ひとつの武の頂(いただき)』
    


 


『ひとつの武の頂(いただき)』

 〜作:あるまじろさん〜


主人公:シリウス・フェン、22歳、男。






 神経を研ぎ澄ませ、目の前にイメージするのは水面。

 剣撃を受け流す鏡。

 メニスカスレイ――私は次の一手をそう予測して、魔障壁を展開した。

 けれど、攻撃は剣ではなかった。しまったと思った時にはもう遅い。腰だめに構えられた相手の拳を、紫色の闘気がまとっていた。

 「今だ! オーラナックル!」

 風圧をもって叩きつけられる物理的な衝撃波、  なすすべもなく腹部に直撃を喰らい、

 「そこまでっ!」

 KO負けを喫した。

 試合終了の合図とともに、試合場の端までさがる。情けないほどに息が上がっていた。おそらく、休憩しないことには、走ることもできないだろう。

ぜいぜいと肩で呼吸し、額の汗をぬぐった。

 「勝者、ドノバン・エルナンデス! 両者、礼!」

 一礼し、顔を上げることなく控え室へと向かう。相手の表情は、見なくてもわかる気がした。

 何十年、何百年と闘う者たちを見守ってきた闘技場には、汗臭いような、かび臭いような空気が滞留していた。あるいは、今のみじめな気分がそう感じさせるのかもしれない。

 友達と試合を見に来ていたのだろう、子供たちの歓声と足音が通りすぎていく。

 全身が重かった。

 疲れ果てた身体を引きずるようにして歩く。

 もう私には全盛期の力はないのかもしれない……そんな思いが脳裏をよぎった。

 その日、今季1勝3敗で私のBリーグ落ちが決まった。






 大魔導。

 それは3大武術大会のひとつ、ミダ杯を2度以上制覇した者におくられる称号である。

 その称号を与【あずか】ることは容易ではないが、また途轍もない難業というわけでもない。プルト五百余年の歴史において、すくなくとも両手両足の指に余るほどには、その名を刻む者がいた。

 だから、私のそのタイトルもまた、才覚によってのものであるとは思っていない。

 ミダショルグ邸前の広場で水を飲み、ひと息ついた私は、その縁石に腰を下ろしてぼんやりとしていた。

 見上げれば青い空。

 そして、まばらに浮かぶ白い雲。

 穏やかな風が頬をなでていく感覚に、すこしだけ心が落ち着きを取り戻す。

 たしかに、その時代においてひとつの武の頂点に立つということは、それなりに名誉なことなのだろうと思う。それでも前回の優勝者が据えられる?シード?という立場は、あまりにも優位すぎるような気がしてならなかった。

 一回戦免除、というのならまだ話はわかる。

 けれど、決勝戦のシードというのは、あわよくば運だけでも勝ててしまうのだ。一度優勝すれば称号を得る可能性がきわめて高い。

 ――自分の称号は、運なのか。

 それこそが、どうしても私が割り切ることのできない逡巡だった。

 ふと、視界を横切っていく影。あれは……ミダ闘技場の屋根に巣を構えている鳥だったか。

 その翼で風を切り、はるか遠くエレシュ山の方向へと羽ばたいてゆく。

 若さと勢い。

 それだけで称号を得てしまったような感覚が、私にはある。自分には空を飛ぶ雄々しい翼があると信じていた頃、その力に疑問を抱くこともなかった。

 15歳にしてミダ杯を制し、そして2度目の優勝。

 時はめぐり、最初の優勝から6年後。そこで喫した敗北を、衰え以外によるものであると考えるのは、けして突飛なものではないはずだ。

 体調は万全、前日まで積み重ねた訓練のおかげで、能力はこれ以上ないところまで伸びていた。

 3大会連続の優勝を、疑ってもいなかった。

 そして臨んだ決勝戦の結果は、

 255対34。

 完膚なきまでのKO負けだった。

 それからだ。

 自分の実力に対する懐疑が頭をもたげはじめたのは。

 私の称号とは、果たして――

 「やめよう」

 かぶりを振って、立ち上がる。

 堂々巡りを繰り返していても、いいことはない。

 ふたたび鳥が飛び立った方向を見やると、すでに空は茜色を帯びはじめていた。昼の三刻といったところか――夜の早い家庭は、もう夕餉を作りはじめている頃だ。

 ずいぶんと長く居座ってしまった。

 帰ろう……。

 ショルグ前の噴水を通り過ぎて、大通り南を抜け、ガアチ区にある自宅を目指す。

 途中、買い物帰りの主婦や、おそらくは意中の異性をデートに誘いにでもゆくのだろう、緊張と期待の入り交じった表情で足早に道を行く若者たちとすれ違った。

 道すがら。黄昏【たそがれ】の空を仰いで、燃え立つ雲に心をゆだねる。


 ただひとつ、あの日から考え続けていたことがある。

 もう一度挑戦者から勝ち上がり、三度【みたび】優勝することができたなら。

 私はきっと、自分の称号を、この上なく誇らしく思うことができるはずだ、と……。

 次のミダ杯は再来年。

 来年のうちにAリーグに上がることができなければ、大会の出場資格さえ得られない。その次となれば5年後、27歳になる。

 十代がピークであったと感じる私にとって、それは絶望に等しい数字に思えた。






 明けて翌年、15日。

 私はリムの漁場の片隅で、貝を掘り集めていた。

 折りしもウルグ祭が開催されているこの日、チャビ通りは各ウルグの催しや個人商店へ買い物にくり出す人でごった返していた。暑気も盛り、照りつける日差しは鋭く、息苦しさを感じるほどの熱気が国中に漂う中、行き交う人々もそのほとんどが額に汗をにじませている。水飲み場は時として行列ができるほどの盛況ぶりであった。

 波打ち際の浅瀬は、そんな空気に火照った体をひんやりと優しく冷ましてくれる。

 「お、またペド貝か」

 運のいいことに、今日は大ぶりの二枚貝がよく獲れた。

 とくに濃灰色をしたペド貝は、黄色地に赤いラインと派手好きなイェル貝、深緑色で行動的なハカロ貝たちと違って見つけづらい。彼らはふだん砂地の奥深くでじっと動かず、また周囲によく似た色をしているために、おおくの場合手で探り当てるしかないのだ。

 そのため、収穫量が少ないこの貝は高値で引き取ってもらえる。

 「あと一匹か、な」

 ハカロ貝あたりが獲れたらカビチを買って、バスの浜で走り込みだ。

 成長のピークを過ぎたとはいえ、まだまだ鍛錬を積み重ねることでレベルは上がっていく。

 昨年の末から今日まで、一日たりとも休むことなく研鑽に費やしてきた毎日。仕事道具を借りるお金も、手元にあった貯蓄さえもすべて訓練アイテムを買うお金につぎこんで。

 しかし、ついにそれも底をついた。

 午後になればボーナスが入るはずだが、もとより今年は仕事をしていない。自分で稼ぐしかなかった。

 ――と、後ろから駆け寄ってくる誰かの足音。

 「おーい!」

 しゃがんだまま振り返ると、金色の髪を風になびかせて小さな男の子が走ってきた。

 あれは……ワグナーさん家のリク君だったか。

 彼は息をきらせて私の隣に立つと、興味深げに手元を覗きこんでくる。

 「ねえ、何やってんの?」

 「お金がなくなったんで、アルバイトをしているんだよ」

 私は微笑んで、手元の貝たちを見せてあげた。

 「この黄色いのがイェル貝、こっちの緑色っぽいのがハカロ貝、灰色のはペド貝っていうんだ」

 「へぇー、へぇーっ」

 彼の瞳には、初めて見るオモチャに向けられるような、純粋な好奇心があふれていた。

 たしかまだ1歳になったばかり……見るもの全てが珍しいのだろう。

 「アルバイトは、したことない?」

 「うん!」

 「貝は好き?」

 「うーん」

 「じゃあ、バハの森……はわかるかな?」

 「温泉のちかく」

 「そうそう、よく知ってるね。あそこはね、茸が取れる」  「きのこ!」

 「そう、茸は好きかい?」

 「すき!」

 「リク君にもできるよ。今度やってごらん」

 「ほんと?」

 「ほんと」

 彼は「きのこきのこ」とひとりで呟くと、うんうんと頷いてから、ぱっと顔をあげた。

 「ありがとう、おじちゃん!」

 そう言い残し、「おーい!」と桟橋で釣り糸を垂れる老人に突撃していく。

 振り向いた老人と目が合ったので、軽く会釈をした。

 ロン爺――変わり者で有名な老釣り人。今日も休日であるというのに、こうしていつものように一番端の岩場から突き出た桟――定位置で王魚を狙っているのだろう。

 「おじちゃん、か……」

 自然と苦笑が浮かんでくる。

 そう、様々な意味において、残された時間は少なかった。

 Bリーグの初戦、私の闘いは明日の朝一番から始まるのだから。






 「ぅわっ!」

 一瞬奇妙な浮遊感を感じて、私は思わず目をつぶった。

 前のめりに倒れた勢いに、周囲の水がバシャッと跳ね上がる。

 「つつつ……」

 顔をしかめならが起き上がったころには、さっき持っていたブレスソードはすでに持ち去られていた。

 ……買ったばかりだというのに、まったくついていない。

 雨上がりの石畳を走っていれば、当然の帰結ともいえるのだけれど。

 共和国においては、憲法第6条において『拾得物の所有権』が定められている。一度落としたアイテムは、いかな理由であろうとも拾った者の所有物として認められるため、あきらめるしかない。

 「どうするかな……」

 なかば投げやりな気分になって、私は呟いた。

 19日、朝の3刻。

 16日の初戦で、私は敗退していた。

 相手はBリーグ5位の新鋭だった。去年Cリーグから全勝で勝ち上がってきたばかりの勢いに押し切られた――というのは、いいわけだろうか。

 鍛錬に次ぐ鍛錬。

 武術レベルでいうのなら、まちがいなくこの国の五指に数えられるはずの能力。

 いったいなにが悪いのかわからなかった。

 歯噛みするしかないような、結果の出ないジリ貧の戦績。

 17日、相手の遅刻により不戦勝。

 18日、終了直前での辛勝。

 この試合は、とてもBリーグの試合とは呼べないようなお粗末なものだった。

 スコアは74対56。

 それも、私が苦しまぎれに出したブレイズソードが、?たまたま?相手の魔障壁に阻まれずに決まり、からくも逆転したというだけのことだった。

 タイミング的にも、かわされて当然の攻撃だった。

 勝った私もどこか居心地の悪い勝ち方だったが、相手のほうもなにか納得のいかない微妙な表情を浮かべていた。

 それでも2勝。

 そう、2勝しているのにもかかわらず……まったく勝っている気がしなかった。

 あたかもあのミダ杯の決勝戦から、連敗が続いているかのように。

 21日は最終戦、相手となるリーグ2位は3戦全勝。

 勝てる気がしない。

 でも、勝たなければならない。

 ……本当に、そうか?

 もうあきらめてしまえば、楽になるのではないか?

 くわえて今日はこのザマだ。

 お前にはもう努力しても意味などないという、ワクトの神のお告げだろうか?

 「……はぁ」

 ため息をついたあと、両手で一発、頬をピシャリと叩く。

 我ながら弱気になっている。

 くさっていても仕方ない、やるしかないのだ。

 それが空元気だとわかっていても。

 なにをするにしても、とりあえずなにか訓練アイテムがほしい――そう思った私は、ヤーノ市場に近いリムウルグへと足を向けることにした。






 貝堀り場に向かう途中、ロン爺とすれ違った。

 私に気づいたロン爺が会釈をして、声をかけてくれる。

 「おはようございます、フェンさん」

 「おはようございます、ロンさん……納品ですか?」

 「そうですな。今日はこの通り、ほれ」

 差し出された魚篭【びく】を覗き込んでみると、中にはきっちり四匹の王魚が入っていた。

 「相変わらずですね」

 「ホホ、わしにはこれくらいしかないでな」

 ロン爺にはもうひとつのあだ名がある――いわく、?王魚爺?。

 なぜか、彼の釣るものは、ことごとくが王魚なのだ。ただ場合によっては、半日に及ぶほどの長い間釣り糸を垂れるようなゆっくりとしたペースで釣っているため、仕事ポイントがずば抜けて高いというわけでもなかった。ご本人の言うには、「王魚だけを釣っているからじゃよ」ということらしく、つまり他のものは釣らずに王魚だけを狙っている……ということらしい。

 にわかには信じがたい話であったが、かれこれ数年間も目【ま】の当たりにしていれば信じざるをえない。

 と、私の顔を見たロン爺がやや間をおいた後、思いがけないことを言った。

 「すこし待っててもらえますかな。よろしければ、お話でも」

 「……ええ、構いませんが」

 ロン爺のお誘いとは、珍しいこともあったものだ。

 納品場に向かったロン爺は、中の記帳係となにやら二言三言かわし、ひとしきり笑ってから戻ってきた。

 「お待たせしましたの」

 「いえ」

 「では、いつものところで」

 私はロン爺の先導について、いつもの場所――最も海に突き出した桟橋へと歩いていく。

 彼の手に提げられた釣竿と魚篭は、歩みのリズムにあわせて、ぴょこぴょこと私の目の前を揺れていた。

 やや鈍く光る黒ずみは、使いこまれた証なのだろう。

 かつて、その釣果【ちょうか】をいぶかしんだ何人かが、ロン爺という謎に挑んでいった。

 ある者はその釣竿に秘密があるのだと言って、ロン爺の釣竿を数日借りた。しかし、どう見てもただの木製の竿、ときおりヌヌギやカイモドキがかかることはあっても、主として釣れるのはやはりヴィチだけだった。結局のところ、彼がその竿で王魚を釣ることはなかった。

 またある者は、そのポイントこそが秘訣なのだと言って、岩場の先で釣り糸を垂れ続けた。だが、他の場所で釣ったときとの明らかな違いを証明することは、ついにできなかった。

 なかにはあの魚篭が怪しいと言って、そこに首を突っ込んで抜けなくなり、一騒ぎを起こしたなんて者もいたらしい。

 ともかく現在では、ロン爺は「そういうひと」として認められている。

 納品所の受付のオヤジも「こんな人は見たことがねぇよ」と言っているという。それはそうだ。ロン爺のような釣果を自在に残せる人間が他にもいるのだとしたら、それこそ?リムの手?なんて才能でも持っているにちがいないと思う。

 なんにしても、不思議な人だ。

 そんなことを考えているうちに、私たちは定位置についた。

 ロン爺はいつも通りその先端に座って釣り糸を垂れ、「こんな格好で失礼するよ」と言った。

 私はその後ろに立ったまま「いえお構いなく」とだけ返した。

 ツンと胸に刺さる潮の香りが漂っている。

 「それで、お話とは?」

 「うむ」

 ロン爺は頷いたあと、のんびりと昔話をするように言葉をつむぎはじめる。






 「フェンさん、こんな話を知っておるかな?」

 「はい?」

 「ジマの闘技場ではな。奥――向かって右手側のほうに立つとな、どうにも剣術が捌ききれんのじゃよ」

 「……そうなんですか」

 「それでな。このことは、コークの闘技場にも言えるんでな」

 「はあ」

 「エレン・カレラという名に憶えは?」

 「は? ……ああ、いえ」

 記憶を探ってみるも、思い当たる人物はいない。

 すくなくとも、今の国民には存在しないだろう姓名だった。

 「ふむ。では、ケイセル・カットはどうかの」

 「まったく」

 どうにも話の脈絡が見えてこない。

 「それらに、いったいどういう関係が?」

 ロン爺はまったく引きのこない釣り糸を垂れたまま、しばし沈黙する。

 漁場の向こうから、今日はヴィチしか釣れねぇよ、誰かがそう愚痴る声が聞こえてきた。

 ふむ、とロン爺は頷いて、

 「エレン・カレラ――彼女は、フォースブロウという体術技を編み出した女性でな。これがとんでもなく強烈な技でな、その威力で第57回DD杯を制しておる」

 「フォースブロウ……聞いたことがありませんね」

 「そうじゃろな。この技は、未完成ゆえあまりにも身体に負荷をかけすぎるものだったんでな……優勝の翌年、彼女は命を落とした。のちにミンクスという女拳闘士がこれを完成させたのが、ソウルブレイクという技じゃな」

 「ああ、それなら知っています。ミダショルグでなければ、私にも使えたかもしれない」

 「うむ。では、ケイセル・カット。彼は、デヴォン紛争時代の剣術家でな。時にしてプルト暦120年くらいの頃の話になる。その剣技は、現在ゴールドランスという形で残っておるの」

 「……なんだか、自分の無知が恥ずかしくなりますね」

 私は自嘲的に苦笑を浮かべた。

 まったく、これで一武術家を名乗っているとは。

 それに対してロン爺は、ホホ、とフクロウのような笑い声を上げた。

 「知らんことは恥じることじゃあないでな。これから知っていけばいい」

 「精進します」

 「ふむ。で、な。彼はその最期【さいご】、講和会議を装った策略に巻き込まれ、12歳の若さで命を落とした。――わかるかの?」

 「いえ……」

 相変わらず、まったく話が見えない。

 「つまりじゃな。非業【ひごう】の死を遂げた二人の武術家――エレンの未練がジマ闘技場の剣術の防御を鈍らせ、ケイセルの未練がコーク闘技場の剣に宿る、というわけでな」

 「……冗談、ですか」

 考えるまでもなく、おかしな話だ。

 それでは、右手側だけが常に不利になる理由がない。そもそも、ワクトの神に召されたはず人間の魂が、今もそこに留まる理由にもならない。

 ロン爺は、さっきよりも小さく笑った。

 「そうじゃの。それは冗談じゃ。実は、コークとジマだけでなく、ミダやプルト闘技場にまでこの法則は通じる。皆には内緒じゃぞ」

 「……どこまでが冗談ですか?」

 「ホホ。それは未練という部分だけじゃな。さて、種明かしをすれば、これが単純な話でな、構造と光となる」

 「構造と光?」

 「うむ。おそらくはショルグ間での公平性を期すため、各闘技場は似たような構造様式をとっておる。俗に云うデヴォニ方式じゃな。でな、採光窓の位置を見てみるとよい。そして床。広さ。建材はミゥド石。それらが起こす光の反射の具合で、右手側からは太刀筋がことのほか見えづらい――ということでな」

 しばし考えたのち……私は、言葉を失った。

 ただの感覚、錯覚だと思いこんでいたことに、それだけの理由と土台があることに気づかなかった。

 いや、考えもしなかったといったほうがいいだろう。

 昨日の試合の最後の一撃。あれはおそらく、そういうことだったのだ。

 ロン爺の後姿を見て、私は思う。

 ――本当に、不思議な人だ。

 けれど、なにより不可思議だったのは。

 「そんなことを、なぜ私に?」

 「そこはご自身で見つけなされ。フェンさんは、もう答えをわかっているはずでな」

 「……。そこまでお見通し、ですか」

 「焦ってはいかんよ。まあそれが若さでもあるじゃろうが。一度立ち止まって、広い目でゆったりとものごとを見る」

 瞬間、勢いよくしなった釣竿をロン爺は一気に引き上げる。

 まばゆい光のしずくを散らしながら、大きな黒い影が水面から躍り出た。

 王魚だ。

 「とっ、とと」

 暴れる海の帝王を魚篭に放りこんで、ロン爺はふたたび釣り糸を水面に放る。

 「そういうことが、必要な時期もあるでな」

 そして無言の間がおりる。

 さざ波の砕ける音と、海鳥の鳴き声。

 寄せては返す海の鼓動。

 それ以上の言葉は必要ないように思えたけれど。

 「――ひとつだけ、訊かせてください」

 返答はなかったが、私はそれを了承と受け取って言葉をつなぐ。

 「これを聞いた私が左手側に立ったとき、剣技を連発したらどうされるおつもりですか?」

 「それは、ないじゃろ」

 「なぜ?」

 「愚問じゃよ。あまり年寄りをからかうものではないでな」

 「……すみません」

 「うむ。次のミダ杯、楽しみにしとるでな」

 「必ず」

 傍らで、王魚が入れられた魚篭ごと一跳ねした。






 闘技場の中は、早くも応援に駆けつけた人々の期待と興奮が漂っていた。

 休日には、応援にくる人の心も逸【はや】るらしい――夜の刻が始まる前に、応援席の半分はもう人で埋まろうとしていた。

 私は彼らの前を横切ると、闘技台の前で片膝をつき、祈りをささげる。

 試合開始の遅くとも1刻前には入場する、それが去年から始めた儀式のひとつだった。

 去年までは、ただ形式的に拝礼の姿勢をとるだけだったが、今はちがう。それは武の神々に自らの練達を示すべく、まっさらな気持ちで闘いの舞台へと立つために、心を清め、鎮【しず】める行為なのだ。強さを誇るためではなく、驕【おご】り、慢心、怯懦【きょうだ】、そういった己の弱さと向き合い、打ち克【か】つために。

 きっちり半刻、おそらくはこの国よりの誰よりも長い黙祷【もくとう】を終えて、私は挑戦者の控え室へと歩いていく。

 ミダ杯決勝戦、その当日。

 ここまで、すべてをKO勝ちしての決勝戦だった。


 あの日から、私はすこしだけ遠回りしてみようと思った。

 自分が今まで見てこなかったものを見るために、立ち止って周囲を見渡すために。怠けがちだった仕事にも汗を流し、家に帰っては文献を読み、行事には積極的に参加するようにした。訓練はただ行うものではなく、それを通じてなにかを見つけるための道なのだと思うようになった。

 そうすることで、見えてくるものがあった。

 いったい、自分は今まで何に囚われていたのだろう。

 この大会でもう一度優勝することができれば……という思いが変わったわけではなかった。ただ、自分が強いのかどうかということよりも、強さとはなんなのか、ということを考えるようになったと思う。

 あれからわかってきたことが、ふたつある。

 ひとつは、強さとは色々なものに宿るのだということ。

 それから、自分が相手の強さを楽しめるようになったということ。

 「ただ今から、ミダ杯・決勝戦を始めます」

 審判の声が聞こえてくる。

 私はゆっくりと、うす暗い控え室から明るく照らされる試合場へと歩き出す。

 強さとはなんなのか。

 抽象的で果てのない問いの答えを、たぶんこれからもずっと探していくのだろう。

 ただ、今は目の前の戦いを愉【たの】しみたいと思う。

 「おじちゃーん、がんばれー!」

 闘技台の下から、ぴょんぴょんと跳ねる金髪の少年――リクと、そしてその隣に、微笑むロン爺の姿があった。

 私はふたりに小さく拳を握って見せて返すと、舞台の反対側に立つ相手向かっていった。


 「そこまでっ!」

 審判のコールと同時に、闘技場全体から、うねるような大歓声が上がった。

 あまりにもあっけなく、あまりにも圧倒的な試合だった。

 「ただ今の結果、255対0で、シリウス選手のKO勝ち!」

 老人は見守っていた。

 その激しい試合中にもずっと、穏やかな微笑を浮かべたままで。

 視線の先には、たった今優勝者となった男がいる。彼は興奮に沸き立つ観客たちの温度とは対照的に、あくまで落ち着き払ったまま、静かに構えをほどく。それでもその頬には、運動によるものではない上気から赤みがさしているように見えた。






 議長からの祝辞と閉会の儀が終わり、観客たちはいっせいに家路へと向かってゆく。

 祭りの後の寂しさが漂う闘技場には新王者となった私とロン爺、そして前王者の三人が残っていた。

 「まずはおめでとう、と言うべきかの」

 「ありがとうございます」

 この人に面と向かって褒められるのは、なんだか照れくさい気がした。

 「私からも改めて、おめでとうございます。今日はぐうの音も出ませんでしたよ」

 はっはっは、と笑い飛ばしたのは前王者であるダグラ君だった。

 浅黒い肌に隆々とせり上がる筋肉、そして竹を割ったような豪快であとくされのない性格は、その闘い方にもよく表れている。

 「いや、たまたまですよ。次はこうもいかないと思いますし」

 私は、謙遜ではなくそう言った。

 こんなうまくいきすぎた試合、そう何度も続くものではない。

 しかし彼の次の言葉は、私の問い――強さとはなんなのか、それにひとつの光明をもたらすきっかけとなってくれた。

 「いや、こう言っては失礼ですが……前回の大会でフェンさんを下すのは難しくありませんでした。そう、確かに武功は凄かったですよ。去年もかなり高められていたみたいですし。正直、今日のフェンさんの身体能力ほうが、低いように思いましたし――ああこれは、ご本人が一番よくわかってらっしゃいますかね」

 私は頷いた。

 今は体が求める、無理のない水準に合わせて鍛錬をしている。毎日欠かさず、でもやり過ぎることもなく、自然のままに。

 「でも今日は、目を見た瞬間に勝てる気がしなかったんですよ」

 「それはまた……大げさな」

 さすがに苦笑が浮かんだ。

 けれど、横からそれに同意したのはロン爺だった。

 「いや、大袈裟ではないと思うんでな。わしも脇から見てそう思っとった」

 「でしょう。あるんですよ、そういうのが。でもそういう目をした人と闘ったのは今日が初めてでしたね」

 「……ここから東方の国ではな、3つの強さがあると言われておる」

 「3つ、ですか?」

 「そりゃまた面白そうな話で」

 「うむ。ひとつは、体【たい】。いってみれば、この国での武術レベルに相 当する概念じゃな。やはり鍛え上げた身体というのは強い。これは誰もが知っておる、シンプルな物差しじゃて」

 そう。私はずっとそれに囚われていた。

 武術レベルが上がっているのに、勝てない。それはすなわち、武術レベルが勝敗を決めると思い込んでいたからに他ならなかった。この年になってようやく、私はあたりまえのことに気づいたのだ。


 勝負は、レベルの高低では決まらない。


 「ふたつ、技【ぎ】。これは使用できる技【わざ】の練度と、それから戦術。いかに相手の繰り出す技を止め、どんな技で相手を倒すか。自分の得意な系統の技でとにかく押し勝とうとする者もおれば、多彩な技で翻弄して隙を突こうという者もおる」

 そこで言葉を区切り、ロン爺はダグラ君を見やり、そして次に私を見た。

 「みっつ、心【しん】。戦いに臨む心構えじゃな。相手を知ること、世界の流れを知ること、そして何よりも自分自身を知ること。この3つは『心技体』と呼ばれてな。どれに欠けておっても、本当の?強さ?には達することができん。また、どれかひとつでも抜きん出た素質を持つものは、その道を求め続けることができる……」

 「心、ですか」

 「なるほどねぇ」

 ロン爺はその好々爺然とした笑みをいっそう深くして言った。

 「さて、年寄りの与太話はここまでじゃの。ふたりとも、次は18日からのDD杯、楽しみにしておるぞ」

 「そうだなぁ。バグウェルと、どこまでわたり合えるか」

 「おっと、フェンさん、その前に僕と当たるかもしれませんよ」

 「それもそうか。そこまで勝ち上がらないとな」

 「今度は負けませんから」

 「そっちこそ途中で負けないようにね」

 「ご心配なく」

 そんな言葉を交わしながら、私たちは連れ立って闘技場を出る。

 思っていたほど、ミダ杯を制したことに特別ななにかを感じることはなかった。

 究極の武の頂【いただき】は、DD杯にある。

 龍の能力は計り知れない。人間の立場から計ることなどできないのだ。

 それでも、「強さ」が身体能力以外のところに存在するのならば――私がその頂上を目指すことも、不可能ではないかもしれない。

 ふと夜半の空を見上げてみる。

 いくつもの光が瞬【またた】く中に、ひときわ輝くひとつの大きな星があった。

 私にとっての極北は、あそこにあるのだろうか。

 3年ごとに見るバグウェルの、理不尽なまでに凄絶な強さを思い出しながら、なぜか胸は高鳴っていた。


 あの星に、光に、この手は届くだろうか。




◆エピローグ◆



 太陽の輝きに水滴の散るがごとく、まばゆいばかりの光の奔流が視界を埋め尽くして迫りくる。

 龍的光波。

 大のおとなすらも呑【の】み込まんとする魔術光の束は、あくまで目くらましにすぎない。

 その実【じつ】は、たった一条の閃光。

 ばかばかしいほどの魔力で凝縮された槍の一撃。

 それさえ捌【さば】ききればいい。恐れるほどのものではない。

 「ふぅッ」

 ひと息で呼気を整調。

 闘気を練り、拳気と化してその身にまとい、体術として歩法に乗せる。

 いくら目くらましと言えど――それでも、生半可な練気では波濤【はとう】に引きずり込まれ、呑まれる。その交錯の一瞬、刹那の間だけ、受け流す力があればいい。

 莫大な魔力をともなった光条が身体の寸先を逸【そ】れていく、その尾が飛び去る前にフェンは既に魔術の練気を創【はじ】めていた。

 「今だ! 召下雷撃!」

 龍の身体【からだ】を稲妻が打ち抜く。まともに直撃したそれに、バグウェルはひるみもしない。

 そのまま命岩成剣に繋げようとした術の気を、とっさに攻撃から防御へと転化することができたのは死闘の緊張感がもたらした集中力ゆえか。

 「これぞ必殺! ドラゴンソード!」

 逆巻く蒼色の波。

 傍【はた】から見ればそうとしか見えないだろう。6年前であれば、フェン自身の目にもそう映っていたはずだ。

 今ならば見える――その正体は超速で繰り出される無数の剣筋。

 充分な剣気を帯びた刀身からは、振るうたびに冴えた月光にも似た軌跡が放たれる。

 いっそ、神々しいまでの美しさをまとった蒼。

 縦横無尽の刺突、斬り払い、フェイントを交【まじ】えた虚実同在の太刀筋。

 連撃。

 かわした先に、また連撃。

 一辺倒の魔障壁では防ぎきることのできない変幻自在の剣技が乱れ飛ぶ。

 もし一撃でももらってしまえば……捕らえられたが最後、あとはなます切りにされるのみ。

 目の前に現れる幾筋もの剣先をかいくぐり、受け流し、

 龍がとうとう剣を振り抜いて止まった。

 ――凌ぎきった。

 「ふハっ」

 肺腑が、いまさらのように呼吸を思い出す。

 どっと噴き出した汗が全身を流れ落ちていく。同時に無我夢中で酷使した身体から気力が滑り抜け、あわや膝がくずおれそうになる。

 時間にしてわずか数秒。

 観客にはおそらく、龍の剣は“ただ振り抜かれた”ようにしか見えなかったはずだ。構え、振り払われた剣から生まれた蒼い波が駆け抜けていった――ただそのように見えただろう。

 じり、と両者が間合いを取る。

 「また腕を上げたか、シリウス」

 「今年も勝たせてもらいますよ、バグウェル」

 「……やってみせよ」

 探り合いから一転、踏み込んだのは龍。

 ドラゴンゲイル。

 圧倒的なまでの拳幕は手数だけでなく、ひとつひとつが重く鋭い。

 拳気を凌ぐは、剣気――

 受ける剣はあくまで軽く、速く、そして柔らかく。


 人と龍は、剣と拳とがせめぎあう音をリズムに踊る。

 いっそう増す熱気は、観客たちをも躍らせる。プルト闘技場から漏れた明かりと歓声とが、しじまとなって宵闇の空へと消えてゆく。

 このうえなく楽しそうな“ふたり”の舞踏は、まだしばらくは続く。


 シリウス・フェン。

 龍技を持たずして龍王の称号を得た稀代【きだい】の武術家。

 32歳で鬼籍【きせき】に入るまでに、3大会連続、通算5度のミダ杯制覇を果たす。

 その記録は、共和国レコードとして今もハーム博物館に君臨している。








    




 2008.7 あるまじろさんより




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